経験の上演
関連授業
後期課程/表象文化論演習(2021A)
「経験の上演:パフォーマンスとプラグマティズムの系譜学」

後期課程/表象文化論演習(2022S)
「経験の上演2:調査的感性論の台頭」
音楽や美術にとどまらず、いまやビジネスでも政治でも工学でも濫用されている「パフォーマンス」という言葉の作動を捉えなおす研究を行なっています。

発端となったのは、稀代のパフォーマーであるトランプが大統領に就任したあと、権力の許すかぎり物事をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、そのひとつの帰結として中井自身のビザが更新できなくなりアメリカを追い出されたとき、「パフォーマンス」がそもそもなんであり、どのような可能性があるのかが根本的にわからなくなってしまったことです。作り手としても研究者としてもこの用語とそれが名指す実践にずっと関わってきたはずなのに、とつぜん自分が何をしているのか謎めいて見えてきたのです。そのため帰国してからはパフォーマンスを作ることをやめ、この用語がどこからやってきて、どのようにして今日において多方面に蔓延する力を獲得したのかを調べないといけないと感じるようになりました。

重要な洞察をもたらしたのは、一歳になったばかりの息子が、周囲の大人の身体を操作して、モノを食べたり、本を読んだりといった自分ではできない行為を遂行することで、欲している特定の経験(とその再演)を上演しはじめたことです。この観察から、パフォーマンスに関わる位相を、外部から観察可能な「振る舞いの上演」と、個々の観客の内面で生じる「経験の上演」の二重性において考えるようになりました。これまでほとんどのパフォーマンス理論が前者に着目してきたことに対して、パフォーマンスの土台はむしろ後者のほうにあると思われたのです。つまり、振る舞いの上演は、経験の上演のための手段ではないか。

こうした経験とパフォーマンスの関係を解き明かすために、経験論の歴史をたどり、とりわけアメリカにおけるプラグマティズムと多分野におけるさまざまな波紋を研究することにしました。東京大学で教えた授業においては、ヨーロッパにおける経験論の伝統(ジョン・ロック、デーヴィッド・ヒュームなど)を踏まえたうえで、ラディカル経験論としてのプラグマティズムを概観したあと、その後の応用心理学や振る舞い(行動)主義との結びつき、フランク・ラムゼイを介したウィトゲンシュタインと語用論への影響、サイバネティクス、情報理論や計算機械の開発などとの絡み合いなどを経て、今日の技術環境下における、機械学習(その能力の一部を、ヒュームとベイズのあいだの論争など古い経験論の遺産から得ている)などの発達による「経験の先取り/予測」の機械化と、インターネットの世界で復活したラディカル振る舞い主義との連動までを批判的に検討する作業を行ないました。

またそのような研究を踏まえたうえで、今日におけるパフォーマンスの可能性を示すひとつの重要な事例として、フォレンジック・アーキテクチャーと調査的感性論の検討と翻訳を進めています。